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2015/08/11

健さん、もう終わりだと思うの。 唐突に上原が言った。



上原梢は国広健一の東京マンションにやってきていた。
国広は東京での生活に、月島近くにある会社所有のマンションの一室を与えられて、単身生活を送っている。
部屋を与えられていると言っても、国広の給料から幾ばくかをこのマンションの支払いに当てられていると聞いたことがある。
高層階で運河を見下ろすこともできるモダンな造りの部屋だ。
上原の給料では一生かかってもここに住むことはできないだろう。

誰にも見られなかったろうなあ。
東京で、こんな夜中に知った人に会ったらそれこそビックリでしょ。
まあ、そりゃそうか。

男は浮気に対して細心の注意を払う。それは根が小心だからで、国広もご多聞に漏れずだった。
上原梢は先ほどやってきて、上着を脱いだ後、国広のために簡単なつまみを作り終えたところだった。

泊まれるのか? 少し飲むか?

国広が聞いた。

泊まろうと思えば泊まれるけど、飲むのはやめときます。
そうか。

国広は冷凍庫から氷を取り出しロックグラスに入れると、そこにバーボンを注ぎ、軽く口につけた。
黒い塗装のアイランドキッチン。間接照明に白い壁、銀の食器棚。琥珀色の液体が入ったグラス。
国広の姿”以外は”全てキマッて見える。

(なんでこんな男を好きだったんだろう?)

黒いソファに身を沈めながらキッチンに立つ国広を見やり、上原梢はこれまでに考えていたことを反芻した。

32歳。子供はいるけど私はまだやり直せる年。
この男は広島に妻子もあり、先々の人生も短い人。
私よりも確実に先に逝ってしまう人。
私が精神的に幼い頃にはなにか惹かれるものがあった。
力強く、強引で、傲慢で、でも憎めないところもあって。
それは事実。
だから後悔はしない。
でも、もう無理。
首の皺、お腹のたるみ、頬の沁み。
もう触られるのは、無理だわ。

薄暗い間接照明の黄色い灯りの下では時間がゆっくり流れているように感じる。
キッチンにいた国広が大股に歩いてやってきて、上原の向かいのソファに座った。
深々と座ったので、国広の大きなお腹が部屋着のハーフパンツの上に乗ってしまっている。
膝の下に見える細い足のすね毛ですら、今は憎悪の対象になってしまいそうだった。

一方、井川遥にも似た美人の上原が大きな目を見開いて自分を見ているものだから、国広は大きく勘違いをした。
今日は久々にいい関係に戻れるかもしれないと思い、半笑いを浮かべながら軽口をたたいた。

どうした。そんなに見つめて。
うん。。。健さん、もう終わりだと思うの。

唐突に上原が言った。健さんという呼称は、本来はベッドの上でしか使わない。
日ごろはプライベートでも部長と呼ぶのが通例だ。
なので国広は男と女の話だなと覚悟した。
もちろん良い気分ではない。
重苦しい雰囲気が部屋を支配した。

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2015/08/10

「わたし妊娠したよ。」「マジか。俺か。」考えられる中でも最悪な返答だった。



別れの言葉の先制攻撃は、上原梢から始まった。
まあ大抵の別れ話の場合、その攻撃権は口下手な男にはなく女にあると言って差し支えないのだが。
上原は遠慮なく言い放った。

わたし妊娠したよ。

いきなり、胃を鷲づかみにする様な圧倒的なボディブローが国広に叩き込まれた。
国広にカウンターを返す暇も与えない、結婚する気のない男にとってこれ以上にない破壊的な台詞だ。
その声は小さいが部屋の中に通る、燐としたものだった。
このような台詞に対する正解は、やったぜ! 二人で育てようぜ! 俺たちハッピーだな! 以外にはない。
それ以外の何を言っても男が悪くなるのが決定な台詞である。

マジか。俺か。

国広が答えた。これ大失敗である。考えられる中で最も最悪な選択だった。
これでもう女が泣いたら、男が悪いのが決定だ。
しかし、上原梢はしくしく泣くような選択はしなかった。

馬鹿じゃないの。健さん以外に誰がいるの。

整った顔で表情もなく怒られるのがこれほど怖いとは、国広は一気に金玉が縮みあがった。
しかし、びびりつつも考えたのが、そういうタイミングがあったのかということだった。
最近、ベッドを共にしたのは・・・

すまん。岡山か。
そうよ。私、ダメって言ったのに。

実は国広は岡山での一夜のことをよく覚えていない。
あの日は元部下の鈴木と2次会でかなり飲んだはずだ。
正に目の前にいる上原梢の処分についてある程度の目処が立って気持ちよく飲んだのだ。
そして千鳥足でホテルに帰着。
部屋に入ってぐーすかと寝入ったところに、上原梢からの電話を受けた。
それはなんとなく覚えている。

意識が朦朧とする中で、上原とセックスしたのかもしれない。
下から見上げる上原のいつものフェラチオを覚えているような気もする。
また朝は確かにパンツを脱いでいたし、横に上原が寝ていたのも間違いない。
手こきで起こされて、朝一セックスのお預けを食ったのも覚えている。
あの日か。

あの日、中で出したのか。
危ないって言ったけど、無理やり。
すまん。

鈍痛が胸を襲った。しかし子供を生むと言わせるわけにはいかない。
国広はすぐに決断をした。

降ろしてくれ。金は払う。
健さん、ひどい。

上原は泣き真似をした。泣いたのではない。泣き真似をしたのだ。
ここで泣くか泣かないかで、慰謝料の額が決まる。
泣かないわけにはいかない。

健さん、ひどいよ。今までのこと・・・どう思ってるの。
いや、すまん。でも育てられないだろう。
私、生むよ。生む。ダメなの?
ダメだよ。俺が結婚してるのは知ってるじゃないか。
別にいいもん。
ダメだって。
奥さんに私たちのこと認めて貰おうよ。


・・・


金をせびるには馬鹿になり切るに限る。
そんなこんなで上原梢は国広から500万円を引っ張り出すことになった。
国広にしてみれば自分が動かせる金のぎりぎりだったのだろう。
かなり渋ったが、断ることは叶わない金だった。
しかし、上原梢を丸め込み、今後の安定した生活を得るためには、500万円という金額は国広にとって大した額ではないのかもしれない。

あの人はあの人でまた儲ければいいじゃない。
上原はそう思った。

こうして、上原梢は国広健一と別れた。
自分の20代を捧げた代償が500万円というのが高かったのか安かったのかは分からない。
だが、自分と子供の生活もある。
上原にすれば500万円というのは大金だった。
会社をやめることもしない、しかし国広には文句を言わない。
表面上はこれまで通りの付き合い。
それが条件だった。



さて、次は20代の津田浩介の番である。
生活のための大金をせびるか、それとも一生を見てもらう結婚を迫るか。
見所のある若い子だし、あんまりいじめるのは可哀想かなあ。
上原はふわふわした頭で考えた。

ちなみに上原は、妊娠などしていない。

ふふふ。誰かに種をもらわないと嘘がばれるかなあ。
作りかけのエクセルファイルからふっと目を上げると、フロアの向こう側に津田浩介を見つけた。
井川遥に似た上原の唇の端が上がり、上原は頬だけで微笑んだ。
津田は同僚と話していたが、上原のその視線に気がつき表情を強張らせた。

あら。あの態度はどうかしら。ふふ。ふふふ。

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